最終章 明日の私(9)
美夏は橋の袂(たもと)に下りた。
川に沿って横たわる土手の上には、土がむき出しになった黄色の道がどこまでも続いていた。美夏は土手の稜線に延びるこの黄色い一本道を、あてもなく歩いた。
川原と反対側の斜面には、幹周りの逞しい桜の木々が連なっている。立派な枝振りが互いに干渉しあう間隔で連なる桜並木は、春には空を薄桃色に染め上げる。空の青に桜のほのかな桃色が映え、ひらひらと花びらの舞う様は、言葉を失うほどに見事だ。
冬の今、その光景を目の当たりにすることはできない。しかし、目をつぶればいつでも瞼の裏に映し出すことができるほど、鮮烈で美しい記憶が胸を焦がした。
岩木山から滑り落ちるように吹き渡る風は川面を伝い、土手を駆け上がり、美夏の髪をなびかせた。川原と土手の境界を埋めるかのように帯状に群生するススキの穂が、午後の日をたっぷりと孕んで柔らかな炎(ほむら)のように燃えていた。
突然、轟音が美夏の耳に飛び込んできた。
橋と並行に川を横切るJRの鉄橋を、二両編成の列車が駆け抜けて行った。ぼんやりとした霧の中にあった思考が、一挙に現実に引き戻された。
美夏はふと立ち止まった。
自分の手を見た。
当たり前のようにこの世にあるもの。
葉を落とした黒い桜の枝。
黒く青く白く、時には金色に輝く川面。
そして眩しく燃え立つススキの穂。
それらを何の躊躇もなく、等しく照らし出す日の光が、美夏の手元にも平等に降り注いでいた。
そして美夏の愛した、凌辱(りょうじょく)されてすっかり灰にまみれたこのちっぽけな器にさえ、分け隔てなく光が当たっている。内側の底に沈んだ瑠璃色には灰がこびりついていた。しかし縁(ふち)の部分は、厚みのある釉薬の透明がぽってりと日の光を内包し、滴るように輝いていた。美夏は試みに、指先で小鉢の底を撫でた。白い灰がさっくりと指先によって拭い去られたあとに、あの、誰も訪れることなどない山間の沼を思わせる瑠璃色が蘇った。
小鉢は耐えたのだ。
小さいけれど赤く燃え上がる、脂(やに)に穢(けが)れたタバコの火を、何度押し付けられても輝きを失わなかった。
父を嫌った。
母を憎んだ。
それを恥じようとは思わない。ただ、自分の弱さを思い知らされた。
柏木ならどうしただろうか。父の帰宅を知ったとき、柏木ならどんな行動をとっただろうか。きっともっと冷静に、自分を貶(おとし)めることなく、上手に振る舞ったことだろう。