『のぼうの城』
著者名:和田竜 出版社:小学館 文責 理科 井上嘉名芽
三成の忍城攻めは、天正十八年(1590年)六月、秀吉の小田原攻めと平行して行われた。この時、秀吉は大軍を率いて小田原城を囲んでいたが、それと同時に、別働隊を用いて、北条方の関東諸城を攻略することとした。その一隊の大将に三成が任じられたのである。三成が率いるのは盟友・大谷吉継、長束正家の他、佐竹義宣、多賀谷重経、北条氏勝、真田昌幸ら東国の大大名ら総勢二万三千余の大軍であった。当時の三成の身分や他の別働隊の将の顔ぶれから見ると、これは大抜擢であったと言える。大軍を率いた三成は、まず館林城に向かいこれを降伏、開城させる。次ぎに向かったのが忍城である。忍城は関東七城に数えられる程の名城であり、城の周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできず、城攻めは難渋を極めた。 忍城は、水攻め困難な城であり、三成もそのことは理解していた。それでも、なお三成は水攻めに固執する秀吉の命に応え、大堤防を築きあげ、水攻めを行なった。その堤防の総延長は約二十八キロメートルにおよぶ。これは、備中高松城水攻めの4倍以上の長さであり、忍城攻めは、水攻めとしては戦国合戦史上最大規模である。しかし、その大堤防をもってしても、浮き城忍城の水没は困難であった。
現場を見ない上司の無理な命令に、必死で応える三成の姿、そこには現代へも通じる中間管理職の悲劇が透けて見える。三成の忍城攻めは、確かに手際は良くなかったかもしれない。しかし、今まで見てきたように、それには随分と同情の余地がありそうだ。三成は秀吉に命じられた条件下で、ベストを尽くすしかなかったのである。忍城攻めに関しては、興味深い事実がもう一つある。忍城を三成の下で、共に攻めた武将は先にも書いたように、大谷吉継、長束正家、佐竹義宣、多賀谷重経、真田昌幸らであるが、これらの諸将は、その後、関ヶ原の戦いでほとんどが三成方、または三成寄りの行動をとっているのである。徳川家康相手の大戦で、彼らが己の運命を三成にかけた理由は何だろう。忍城攻めを間近で見ていた彼らは、「戦下手」という通説のイメージとは違った三成の姿を、見ていたのではないだろうか。
なお、本書は忍城を指揮した「成田 長親(ながちか)」の物語である。一般には上記のように石田三成を中心とした話が残っているが、その裏側を著者が可能な限り史実に基づいて書き上げた。この長親を「でくのぼう」からとった「のぼう様」と親しみの相性をこめて接する農民とのつながりの話である。日本という国では、強いリーダーシップを発揮するよりも、弱いリーダーが中心である方が、組織運営がスムーズに行くこともある。忍城攻防戦におけるのぼう様は、「弱き殿ゆえ我助く」という領民や家臣に支えられた「絆」のお話である。
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