ToO Gijuku Topics(東奥義塾)
東奥義塾高等学校 公式ブログ

○1760『あられもない祈り』○

『あられもない祈り』
著者名:島本理生 出版社:河出書房新社
文責:地歴公民 加藤真之

 一般化や類型化を、私は好みません。特に芸術に関しては、個別性や特性を見出してこそ作品を楽しむ度合いを深めることができると信じています。敢えて芸術に限定したのには訳があります。ある作品が、他の作品と違う特性を有しているからこそ受け入れられる、評価されるという側面を、各分野の芸術こそより強く持ち合わせていると考えるからです。傾向や類似点を見出して、その作品の作者が受けたであろう影響の系譜をたどり、作品の源泉を掘り起こそうとする動きが評論の世界では多く用いられます。的を射た評論はそれそのものが作品としての高い品格を持ち、示唆に富んでいます。しかしそれはそれとして、音楽も絵画も、あるいは陶磁器や映画も、その作品が持つ特性が、とりわけ自分の内面に迫ってくるという現実に、皆さんは直面したことはないでしょうか。私にはそんな経験があります。2009年10月初旬のことです。私は修学旅行の引率で、カナダのバンクーバーに滞在していました。その日の午後は自主研修に充てられていて、生徒は班ごとに、事前に組んでいた研修のルートをたどるための時間を過ごしていました。生徒が比較的自由な行動をとっている間は、引率の教員は生徒の様子を見るために街を歩くことができます。私はしばらくの間、滞在するホテルのロビーで何か問題を抱えた生徒が戻って来た時のために待機していました。その役目を旅行代理店の添乗員さんと交代し、約半分になった自由時間を過ごすためにある場所に向かいました。そこはバンクーバー美術館です。
 それまで、私は抽象画の価値に共感することができずにいました。抽象画という括りをもつこと自体が、一般化や類型化にとらわれたものの見方ということになりますから、正確には抽象的な概念の抽出を試みた作品に、共感することができる個体に出会ったことがなかったということになるのかもしれません。いずれにしても、その作品に出合った瞬間、私の体に、ある種の衝撃が走ったことは今でも忘れることができません。ある媒体を用いた芸術作品を、その他の方法を用いて表現し直すことは、基本的に不可能です。この場合は油絵の具で描かれた作品を、言葉によって正確に再現することはできないという意味です。この事実を敢えて押し返し、さらに曖昧な記憶を掘り起こしつつ、言葉を用いてお伝えすることをご承知置きください。その作品は50号のPサイズ(縦1167mm×横803mm)程の大きさだったと記憶しています。キャンバス全体が一面の濃緑色で塗りつぶされています。単色ではありますが、その濃淡が画面全体に絶妙な陰影を刻んでします。その陰影が、人間の感情の起伏をごく自然に、しかも正確に表現しているように思えます。そして、その一面の緑の中央よりわずか上の位置にただ一点、本当にささやかな黄色が一刷毛、これ以外にはありえないという色と形と大きさ、さらには醸し出す雰囲気で佇んでいるのです。一目見ただけでは誰にでも描けそうな、単純な構造を持っただけの作品だと、多くの人々に評価されるに違いありません。しかし、その作品は理由さえ悟らせないまま、直接私の胸の奥にぐいぐいと入り込んでくる力をもっていました。その暖かさや切なさは、もう言葉で表現する域を超えています。今でも、この文章を書いているこの瞬間にも、思い出しただけで同じレベルの感動が私の胸を支配するほど、この絵の持つ力は私にとってとてつもなく大きなものでした。この作品の作者は分かりません。その場で覚えることができませんでした。しかし、その題名は鮮明に覚えています。『KISS』です。
 『あられもない祈り』は、私にこの絵の存在を再び想い起こさせてくれました。言葉にするのが難しい感情を、登場人物の在り方に沿って真摯に表現してくれているように思えるのです。言葉の使い方が、ただ巧みだというのではありません。もどかしさや「分からなさ」を抱えながらも、何とか言葉を紡ごうとする登場人物をきちんと物語の中に立たせている、そんな印象を受けるのです。「一番苦しいのは、ねじれの部分なんです。心と体のどちらを信じればいいのか分からなくて、だから、自分のことも信じられない」「あなたに全身を見張られて与えられることで、幼い頃から他人の顔色ばかりうかがって、親や恋人と円満な関係を築くために感情を沈黙させて手首を切ったりすることすらいとわなかった私は生まれて初めて、自分に備わった両手や髪の先、背中や腰の骨一本までもが自分のものであることを実感した」「あなたは私の中の海をさらっていってしまった」といった具合です。ともすれば「うれしい」「悲しい」など、喜怒哀楽の単調な言葉を用いてお茶を濁しかねない場面を丁寧に描き込もうとする感覚が随所にちりばめられ、作者がその筆力を十分に発揮してくれているように思えます。また、逆説的な表現を用いて真理を突くような言葉にも、感心させられました。「それが大きすぎる不安からだと、あのときは気付かなかった。あなたは弱い分だけ強情で、強い分だけ脆かったのだと」というように。もどかしさや「分からなさ」は、『KISS』の背景の濃緑色を想起させます。逆説的な表現は、一般的には赤を用いそうなところを、唇を思わせる箇所を敢えて黄色で表現することに昇華されていることに似ています。背景の濃緑色にしても唇を思わせる黄色にしても、『KISS』が現象ではなく感情によって成された業であることが想起されます。『あられもない祈り』は『KISS』と同等の価値を私に見せることで、『KISS』と出会った瞬間の感動を私に想い起させてくれたのです。
 私たち人間の感情は実に複雑な構造を持ち、時として理解に苦しむ過程を経て現実の世界に表出されます。その表出、あるいは表現の仕方には様々な方法があり、各芸術は、それぞれの方法をもって役割の一端を担っています。『あられもない祈り』は、小説という芸術の価値の大きさを、私に再認識させてくれました。小説家は、言葉では表しにくい感情をその筆力をもって巧みに代弁してくれます。そのことによって、読者である私たちは自らの感情に名前を付け、納得することができるのです。あるいは、物語の登場人物を通して、自身の姿を省みる機会を与えてくれているという言い方ができるかもしれません。いずれにしても、私たちが小説や絵画をはじめとした芸術に触れる価値には、自分の姿を省みるという意味が込められていると思うのです。しかしその一方で、すべての小説や絵画が個人に対して同じ価値を持って迫って来るとは限りません。むしろ個人の内面をえぐり出し、取り出されたものと引き換えに体内に埋め込まれるほどの「動揺」をもってその人の真に迫ってくる作品に出会えることは、実に稀なのです。そこには作品の持つ力はもとより、受け入れる個人の側にも、それまでの自分とは異質なものを受け入れることに対する力もまた必要とされるからです。私には偶然にも『KISS』と、それと同等の重さをもって迫ってくる『あられもない祈り』に出会うことが許されました。一般化や類型化をものともせず、絶対的な価値をもって迫ってくるこれらの作品に向き合うことができた事実は、何ものにも代えがたい幸運を私にもたらしてくれました。そんな幸運をただ待つのではなく、自らの手で取りに行くことができるように普段から力を蓄えられる自分であることを、切に願って止みません。
 
最新記事
学校所在地
036-8124               青森県弘前市石川長者森61-1  東奥義塾高等学校 TEL:0172-92-4111 FAX:0172-92-4116

東奥義塾

Author:東奥義塾

AKB48の渡辺麻友の3rdシングル特典DVDに本校制服が!!

この公式ブログが「あおもりICTコンテスト2010(学校Webサイト部門)」で「最優秀賞」!!

東奥義塾個人情報保護方針→こちら

カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

09月 | 2017年10月 | 11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -