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○1909『その女アレックス』○

 『その女アレックス』
著者名:ピエール=ルメートル 翻訳者:橘明美
出版社:文藝春秋 文責:地歴公民 加藤真之

 犯罪小説、あるいは推理小説を読むのは実に久しぶりでした。私はこの種の小説を滅多に読みません。その理由を今回の読書経験を踏まえて自分なりに探してみました。その結果、作品の中に頻繁に登場する暴力や殺人の描写の影響により、読後感が暗い方向へと引きずられていく感覚に抵抗があることに気がつきました。物語の性質上、暴力や殺人にまつわる場面が詳細に描かれることは必然であり、読者はその場面を避けて通ることはできません。反対に、暴力や殺人にまつわる場面の描写力や、行為そのものの手法がユニークな作品が注目される要素をもつことになり、読者をひきつけることができると言えます。この理由から、ときには暴力や殺人の場面が残酷で凄惨な作品ほどもてはやされる場合があることを、私は残念に思います。作者が自ら創造した登場人物たちの内面にその筆力をもって肉迫し、暴力や殺人の必然性が無理のない言葉で語られた結果、暴力や殺人をもってしか人生を生きていくことができない人々の姿に、読者が想いを寄り添わせることができるような物語が完成します。このようにして生み出された物語こそ、傑作と呼ぶにふさわしい作品であると言うことができるのです。
 この物語の優れた点は、読者の推理を適度に裏切る構成の巧みさにあります。物語の性質上、ストーリーについて語ることは慎重に避けなければなりませんが、三部構成を取る本作は、第一部で主人公の一人であり誘拐事件の被害者であるアレックスという名の女性の行方を追う物語が展開されます。しかし、ストーリーが進むにつれて被害者であるはずのアレックスがどうやらそれだけの存在ではないらしいということが明らかにされていきます。この流れが比較的短い章立てで区切られ、しかもアレックスと捜査官の視点が交互に描かれるため、テンポ良く物語が進展していきます。この流れの中で、読者はアレックスの存在そのものに関する見解を、作者の巧みな語り口によって二転三転させられることを余儀なくされます。作者がプロットを巧みに操って読者を手玉に取り、楽しませ、作品世界にぐいぐいと引き込んでいく筆力をもっていることに、ただただ敬服させられるばかりです。
 アレックスがどのような女として描かれているのか。その姿を読者に理解させるために作者が割いた紙面は至る所に配置され、内容・分量ともに必要かつ十分であると思えました。アレックスは言うまでもなく、物語の構成上主人公の一人として描かれ、彼女の視点から描かれる内容が第一部と二部を通じて約半分を占めます。ところがその他の登場人物については、その内面の奥深くにまで踏み込んで十分な描写を与えられていると言える人物が、一人もいないように思えてならないのです。物語上、最も詳しく描かれるべき対象はカミーユ=ヴェルーヴェン警部です。彼についても過去の辛い経験と、この事件に取り組み始めた時点でもその辛さを引きずったままである様子が描かれています。しかしなぜでしょう。カミーユが背負う辛い過去の経験が、いかにもアレックスを救い出そうとする姿勢の強い動機づけとして機能し得る内容であっても、それ自体が本編の、アレックスの過去に比して明らかに脆弱な力を発して終わっているように思われるのです。カミーユをはじめとした捜査陣の奮闘を描いた文章は、第一部と二部を通じて約半分を占めるばかりか、第三部に至っては全体を占めています。それにもかかわらず、アレックスの人物像が際立って読者の記憶にとどまる力を宿している反面、カミーユの人物像はどこまでいっても表面的な描写に終始してしまっているように思えてならないのです。
 犯罪小説、あるいは推理小説を読むことの醍醐味は、物語がどれほど多くの痛ましい暴力や殺人に彩られていたとしても、そこに描かれた人物たちが何らかの形で救われる姿を垣間見ることができるところにあります。しかし『その女アレックス』については、この醍醐味を味わうことができませんでした。文章上はきちんと登場人物ごとの救いが準備されています。しかしそれは形式的にそうしたに過ぎず、アレックスの姿を描いた場面とは不釣り合いなほど、弱々しく描かれているように思えるのです。これはあくまでも私見ですので、物語を読んだ方々が同じように感じるかどうかは分かりません。しかし、プロットを工夫して読者の好奇心を駆り立て、作品世界にぐいぐいと引き込んでいく筆力に比べると、登場人物を際立たせる、描写力とも呼べる力が今ひとつ不足しているように思えてなりません。この理由から、カミーユをはじめとした捜査陣のメンバーの姿が、個性的というよりも掴みどころがなく、煩雑な人間関係に埋もれて見えなくなってしまっているように思えてならないのです。同じ作者の次回作ではこの点が修正されていることを期待して、新作が出版されたら手に取って読んでみたいと思います。

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