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○1941『蜘蛛の糸・杜子春』「トロッコ」○

『蜘蛛の糸・杜子春』「トロッコ」
著者名:芥川龍之介 出版社:新潮社 文責:地歴公民 加藤真之

 皆さんは少年の頃に読んだ物語が、年を経た後の再読によってまったく別の物語のように感じられた経験をしたことがあるでしょうか。その物語に初めて接した年齢はもちろんのこと、再読までに空いた期間もまた、感じ方を変える要素になることと思います。それは読者が積み重ねてきた様々な経験の量によって変わっていくものなのだと思います。その一方で、様々な経験の量によって登場人物たちの「誰」に、あるいは特定の登場人物の「いつ」に感情移入するかという点もまた、物語に対する感じ方を変える要素になっていると思います。この感情移入の対象もまた、時間の経過による経験の積み重ねによって変化しているのです。このことに思い至ったのは、「トロッコ」の再読によってでした。
 「トロッコ」を初めて読んだのは、おそらく小学校高学年か中学1年の頃だったと思います。この文章を読んでくださっている多くの方々が、私と同じようなタイミングで「トロッコ」を読んだ経験をおもちなのではないでしょうか。なぜなら、この物語が長期間にわたって多くの教科書に採用されているからです。『新潮文庫 中学校国語教科書 採用作品一覧 平成26年度』(新潮社)によれば、「トロッコ」が現在も多くの教科書に採用されている事実は変わらないようです。私自身の記憶が定かではないために、小学校の高学年の教科書で読んだ可能性を残した書き方をしました。しかしこの『一覧』によれば、「トロッコ」は中学校1年生用の教科書に採用されている場合が多いようです。私も中学1年のときに読んだものとして考えてみると、主人公の少年・良平がトロッコに初めて乗った時の華やいだ気持ちが印象的だったことを覚えています。トロッコが風を切って進む中、それに乗った少年もまた頬に風を受ける爽快な場面の中に現実の自分を立たせ、自分もそんな経験をしてみたいものだと思ったことを覚えています。疾走感とそれに伴う高揚感。それがこの作品の本質であり、すべてであるように記憶していたのです。ところが、それから四半世紀を経た現在の自分がこの物語を読んで最も感じ入ったのは、まったく別の場面についてでした。
 この物語を私なりに区切ってみると、大きく五つの流れに分かれます。一つ目は導入部分のトロッコへの憧れ。二つ目は実際にトロッコに乗った経験。かつて少年だった私は、この場面にひき込まれたのです。「トロッコは最初徐(おもむろ)に、それから見る見る勢いよく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽(たちま)ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開してくる。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、良平は殆(ほとん)ど有頂天になった」。この文章を読みながら思い描いた風景の中に自分を立たせては、風の感触を想像しては楽しんだものです。三つめは断りもなくトロッコに触れたことで背の高い土工に怒鳴られる場面。四つ目は二人の土工とともにトロッコを押し上げるのを手伝った場面。このとき良平にはトロッコに乗せてもらいたいという下心があったが、その思いは叶えられませんでした。それどころか夕闇がつつむ長い道のりを、たった一人で歩いて帰らなければならなくなったのです。この場面が四つ目です。「良平は少時(しばらく)無我夢中に線路の側を走り続けた。-中略-彼は左に海を感じながら、急な坂路(さかみち)を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んでくる。-それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った」。子どもにとって心細い要素が詰まった場面を、何とか切り抜けようとしてもがく良平の姿に、自分の中に眠る何かしら同じような経験が頭をもたげてきます。この場面に対する共感にこそ、今回の読書の面白さがあったのです。最後、五つ目の26歳になった良平が当時の出来事を思い返す場面で、物語は締めくくられます。
 この最後の場面は、読み手に強い違和感を与えるのではないでしょうか。妻子と一緒に東京に出てきた26歳の自分が、心細さと不安に涙を流したあの場面を思い出している。つまりは東京での新しい生活が、心細さと不安に包まれたものであることを暗示しているのでしょうか。「塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している」という一文は、文章の構成上、やはり主人公の内面の暗い部分を浮き上がらせたものと読まないわけにはいかないのかもしれません。この暗さは、ある程度の社会経験を踏まえたからこそ分かるものなのだと作者は言いたいのではないでしょうか。だからこそ26歳の今となっても、過去の場面が、将来の自分にもまた同じように機能することを予感しているかのように描かれているのかもしれません。少なくとも、私にはそう思えるのです。そしてこの点にこそ、私がかつてこの物語に接した時には味わうことができなかった奥深さが隠されていることに、改めて気づかされました。幼かったかつての私は、トロッコに乗って風を切って走る主人公の成功体験に心惹かれました。しかし今の私は、心細さと不安に涙を流した少年の心境に共感し、その憂いをその後も抱え続ける26歳になった主人公に自分の姿を重ねているのです。
 
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