『関ヶ原島津退き口―敵中突破三00里―』
著者名:桐野作人 出版社:学研新書 文責 国語 坂本 幸博
「天下分け目の関ヶ原」の勝敗がほぼ決したかに見えたその時、それまで微動だにしなかった島津勢が、突如徳川家康本陣めがけ突撃を開始する。そして敵中を突破して本領薩摩に帰陣するというのが、一般的な島津義弘の撤退、いわゆる「島津の退き口」に対する認識であろう。
このイメージは「鬼島津」と呼ばれ、「沖田畷の戦い」では得意戦法「釣り野伏」を駆使し、敵の総大将龍造寺隆信を討ち取る。また、慶長の役の撤退戦では、わずか数千の兵力で、明・朝鮮連合軍二十万を撃破。朝鮮軍の指揮官である英雄「李舜臣」を討ち取っているというところから生まれたものであろう。
しかし、関ヶ原の中央突破は実際に思われているほど華々しいものではない。副将である甥の島津豊久は乱戦の中で討死し、重臣の一人である長寿院盛淳は義弘の身代わりとなって、敵を引きつけ奮戦した後に討死している。その他、多くの将兵が討たれ、薩摩に帰陣したのは約500名であったといわれている(島津勢総数は1500)。
ただ、実際の状況とはうらはらに、多くの武将達はもちろん、京の町人や周辺諸国の農民達にも壮絶な印象を与えている。例えば、「其の合戦の形勢すぐれてはげしかりしにや。其の時京童の諺に、物のはげしき事をば、島津の退口のごとしぞいいける」というように、京童たちが「物のはげしき事」のたとえとして「島津の退口」という言葉を使っていたのである。これはその時のすさまじさが社会的にも認知されていたことの証明となる。
当該図書では、島津側はもちろん、周辺諸国の大名家の資料を詳しく読み解き、退き口の実態の一端を詳しく描写し、義弘にとって、関ヶ原とはどんな意味があったのかということを詳細に捉えている。
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